2015年09月08日

日本は難民を受け入れるべきか否か。

トルコの海岸に打ち上げられた一人の男の子の遺体の写真が世界に衝撃を与えた。
男の子の名前はアイラン。
シリアの内戦を家族で逃れてきた難民で、トルコのビーチリゾート、ボドルムからギリシャのコス島へ向かう途中転覆した。
http://jp.wsj.com/articles/SB12096842380967064583604581211692551093796


シリアの内戦も4年半に渡って続き、家を追われた難民は400万人とも言われている。
もはや周辺諸国ではまかないきれないとして、国連は日本にも難民の受け入れ要請をしている。
http://www.asahi.com/articles/ASH6L64RXH6LUHBI02J.html


●日本は難民を受け入れるべきか否か

日本も難民を受け入れるべきか否かと問われれば、人道的には受け入れるべきであろう。
だが、土地、経済、宗教、言葉等を考えると、厳しいと言わざるを得ない。
都市部はそもそも土地が少なく、地方に行けば、土地はあるかもしれないけども日本人ですら仕事が無い。
そして、言葉と宗教の違いは常に付きまとう。
どう見ても安易な受け入れは、双方ともに不幸になる結末しかないように思える。


どうしても受け入れるのであれば、住居や仕事などの整備を進め、ある程度の目処が立ってからとすべきだ。
そうでないと、犯罪に手を染めてしまうかもしれない(同じ状況に置かれれば、日本人だって同様だろう)。


また、難民だからと足元を見て、現代の奴隷制度と悪名高い外国人技能実習制度のようなことをやってしまうかもしれない。
そんなことをすれば、世界に恥を晒すどころではないだろう。


ではどうするか。
現実的には資金や物資の支援しかできないのではないだろうか。
日本政府に難民を受け入れる意思があるのであれば、その体制作りを進めるのも良いだろう。
また、紛争の終結の為の協力をする(とは言っても、どちらかの体制に付いての直接介入はできないだろうが)。


アイラン君の写真を見て、難民を受け入れろと叫ぶのは良い。
でも、感情を優先しては良い結果は生まないだろう。
むしろ叫ぶべきは紛争の終結である。
紛争が終わらなければ、難民は増え続けることになるのだから。


とは言え、紛争の原因が欧米の植民地支配や帝国主義にあるのだから、単純に空爆して収まるとも思えな。
負の連鎖、暴力の連鎖を断つにはどうするのか考えなくてはいけないのだろう。

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2015年08月27日

夏休み明けに増加する自殺者。死ぬくらいなら図書館へ。

ツイッターを眺めていると、学校行きたくなくて自殺するくらいなら図書館へ、というツイートがあり、良いなと思った。


内閣府の調査によると、1972年から2013年の18歳以下の自殺者が、夏休み明け(9月1日前後)が最も多いという調査結果が出された。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG18H7L_Y5A810C1CR8000/


これはまあ、正直分かる話である。
子供に限らず大人だって仕事行きたくねーなーと休み明けは憂鬱だ。
日曜の夕方、サザエさんが始まると憂鬱になるサザエさん症候群は有名な話だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4


普通の休みだってそうなのだから、長い休み明けなら尚の事。
もちろん中には学校行きたい、仕事行きたいとウズウズする人もいるだろうけども、ほとんどの人は憂鬱になるのではないだろうか。


●自殺するくらいなら図書館へ

最近は授業時間の確保の関係で、始業式が9月1日でない学校も多く、その関係で既に学生の自殺のニュースが報じられている。
気持ちは分かるが、親御さんや友達など、貴方が死ぬと悲しむ人がいることを思い出してほしい。


また、図書館等で違うことを考えることも有効だ。
鎌倉市図書館さんもツイッターでこんなことを言っている。
「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。」
https://twitter.com/kamakura_tosyok/status/636329967668695040


それに、昔から「案ずるより産むが易し」という。
先の事をああでもないこうでもないと考えるより、さっさと行動に移してしまった方が楽ということだ。
逆に言えば、人間は皆昔から同じようにあれやりたくないなあとか、これやりたくないなんて考えているということだろう。
人間皆同じようなものだ。
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2015年08月12日

川内原発は想定外を想定しているか?

奇しくも東日本大震災の月命日の11日、鹿児島の川内(せんだい)原発が再稼働された。
新しい基準となってからは初の再稼働となる。
14日には発電が開始される予定だ。
世界一厳しい基準に適合したというが、そうなのだろうか。


確かに、津波や地震時の全電源喪失対策は問題ないと思われる。
むしろここを蔑ろにしたら、何の為の対策なんだかわけが分からない。
しかし、火山の対策には疑問を感じざるを得ない。
読売新聞の社説では、噴火の兆候があれば燃料を運び出すことも決めた、とあるが、通常燃料を運び出す前の冷却期間として数年が必要とされる。
つまりは数年前からの噴火予知が不可欠となるわけだが、果たしてそんなことは可能だろか。
原子力規制委員会の田中委員長は、いざとなれば3ヶ月で燃料は持ち出しが可能と言うが、今のところその技術は確立されていない。
また、チェルノブイリのように石棺にしてしまうことも考えられるとのことだが、さすがに荒唐無稽だろう。
また降灰の予想も甘い等、ゼロリスクを求めろとは言わないけども、さすがに想定が甘すぎると言わざるをえない。
それもそのはず、原発が稼働している間に大規模な噴火は無いという見通しだからである。
原発推進というバイアスがかかるとここまで楽観的になってしまうものなのか。
http://economic.jp/?p=42375


最終的にはそこに住む人がOKすれば良いとは思うが、避難計画も十分だと言えない以上割を食う気がしてならない。
http://toyokeizai.net/articles/-/44307


また、放射性廃棄物の問題も結局棚上げとなったままである。
六ケ所村の核燃料処理施設の稼働や核燃料サイクルを進めろとしているが、事故続きで運転できる目処すら立っていない。
それでもやめないのは、継続していないと使用済核燃料の置き場がなくなって原発が稼働できなくなってしまうからだ。
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/nuclearpowerplantfuture/36877.html


政府は2030年の原発比率を20~22%としているが、これは現存の原発の運転延長や新設がなければ達成できない数字である。
そんなに簡単に運転の延長を決めてししまって大丈夫なのだろうか。


ボストン・コンサルティンググループの日本代表御立尚資さん曰く、 日本人は、「失敗から学んで次に生かす」ことは得意だが、「想定外を想定する」ことは下手である、という。
福島第一原発の事故の原因は、想定外の津波である(一応地震には耐えたといわれている一方で、津波が来る前に既に制御不能であったという話もあるが)。
川内原発は想定外を想定しているだろうか。
大規模な噴火は起きないとしている時点で、もうすでに想定外が生じているのだけども・・・。
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2015年08月06日

広島への原爆投下から70年。核軍縮にこそ歴史認識が必要だ。

今日、8月6日は広島に原爆が落とされた日だ。
昭和20年(1945年)から今年で70年になる。
二度とあの悲劇(もちろん私は直接は見ていないが、長崎の原爆資料館は行ったことがある。)を起こさないよう、世界が一丸となって核軍縮をすすめるべきである。
先日NHKのアンケートで、広島、長崎の原爆投下の日を知らない人が7割にのぼるというものがあった。
ちなみに私は、西暦で言えば分かったが、昭和何年かは分からなかった。
原爆投下より70年も経てば仕方がないのかもしれないが、それが核軍縮に逆行する流れを生むのであれば、やはりきちんと知っておかねばならないことではないだろうか。


というような前置きで読売新聞の社説も同じように核軍縮を唱えているが、中国が、被害者の立場を取ろうとしているとして日本を非難している例を上げ、核軍縮に歴史認識問題を絡めるなと言っている。


だが、原爆を投下した爆撃機、エノラ・ゲイと被爆者の遺品を一緒に展示しようとしたら「全米兵への侮辱」言われたり、原爆投下で戦争終結が早まり多数米兵の命が救われた等、それこそ正に歴史認識ではないだろうか。
被爆者の遺品や、原爆ドームなどの戦争遺構は、核兵器ってやっぱり使っちゃマズいよねって思わせる事が目的であり、まかり間違っても、核兵器スゲー超使えるじゃん、なんて思わせてはいけないのである。
それには原爆投下はマズかったという歴史認識が必要であり、戦争終結を早めるから場合によっては仕方がないなんて思わせてはいけないのである。
それには当然原爆投下に至る経緯を知ることが必要だ。


核兵器それ自体に罪はない。
SFチックだが、ロケットの推進力(実際研究はしていたようだ)や、地球に近づく小惑星の破壊もしくは軌道を逸らす等核兵器自体に使い道が無いでもない。
悪いのは、それを戦争に使う人間だ。


原爆投下だけを取り出して被害者面をしているだけでは何も解決しないのは明らかだ。
日本だってやることはやっているのだから、中国の非難は的を射ている(当然戦時中に日本にやられたことに対する遺恨も多分にあるだろうけども)。
きちんと自分たちにやったことを認めた上で、核兵器はヤバイ、戦争はもっとヤバイものだと伝えることが、唯一の被爆国である日本に課せられた使命ではないだろうか。
世界で唯一の被爆国日本が唯一のではなくなってしまう前に。
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2015年08月03日

学術的な観点を踏まえた、史実に基づく正確な記述という建前のうやむや化

読売新聞の社説に、戦争遺構を残し後世へ語り継げとあった。
その言や良し。
戦争は悲惨なものだと後世へ伝え、二度と起こさないよう教訓とすることは必要なことだ。


ただ、一つ気になったのは、「一部の人に配慮して両論併記とした」のくだりである。
というのも、長野市の権堂アーケードの七夕飾り垂れ幕に、安保法案に反対するような標語を掲げたところ、それを一部の人のクレームにより撤去したということがあったからだ(まあ私も祭りには合わないと思うが。でも、それはあくまで祭りに合わないというだけで、政治的観念は別だ)。


そのように、一部の人への配慮という口上によって言論の自由や脅かされたり、歴史的事実がうやむやなってしまうのではないだろうか。
本当にそれで後世へ語り継ぐ意味などあるのだろうか。
社説の戦争遺構にしても、強制連行があったにせよなかったにせよ、そこははっきりとさせ(戦争中故に紛失してしまったものも多いだろうが)、やっていたのならばきちんと謝罪し、やっていないのならばハッキリと表明すべきではないのか。
もちろんその調査は諸外国が納得するような形で行うことが重要だ。


戦争遺構は何をやってはいけないか語り継ぐ場所である。
何が悪いことなのか、何があった場所なのかハッキリとしなければ必ず同じ轍を踏む。
やられたことだけでなく、自分たちがやったことも正しく伝えてこその戦争遺構ではないだろうか。


「学術的な観点を踏まえた、史実に基づく正確な記述」とはちゃんちゃらおかしい。
ただ問題をうやむやにしているだけではないか。
そんな戦争遺構になんの意味があるだろうか。
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